私は2005年7月24日付をもって陸上自衛隊第1空挺団を除隊した 。
運悪くその日は土曜日の休みの日だったにも関わらず多くの人に見送られて営門を出た 。
本当に家族の様に温かい人たちで別れるのが辛かった 。
例外なく退職して営門を出る人は必ず泣く。
なぜなら私にはやるべき事があった。
外人部隊に行くためのステップとして入った自衛隊だが、そこで過ごす内にその家族の一員となって離れるのが辛くなった 。
辞める決断をするまでに何度も考え、泣いた 。
もう充分泣いて目指す志願のため、私は前を向いて進むしかなかった 。
もう二度と日本に生きて帰れるとも思ってなかった 。
営門を出たその足ですぐに旅行代理店に行き、フランスへの航空券を買った 。
出発日はその日から2週間後、なぜなら8月6 日 に習志野駐屯地夏祭りがあり、そこで皆に今生の別れの挨拶をしたかった 。
もちろん外人部隊に行くとは一言も言わなかったが 。
そして8月8日フランスへ出発。
初めての外国で、フランス語も全く分からず、なんとかホテルに着いて一息 。
翌日に募集事務所があるパリ郊外にあるフォルドノジャン(Fort de Nogent)を偵察し、位置を確かめた 。
メトロの駅名を確かめたり切符を買うのでさえ苦労した。
フォルドノジャンの門にはLEGION ETRANGERE(外人部隊)と描かれていた。
私はとうとう、ここまで来た。
2日後に志願すると決め、それまでパリを観光した。
2005年8月10日、私は外人部隊の門を叩いた。
パスポートを渡して営門で簡単な手荷物検査を受けて中に通された 。
同じ時に5、6人の外国人も志願してきた。
すぐに簡単な知能テストを受けたが、日本人なら簡単なものだったが、それで一定の基準に満たしてない者はすぐに追いだされた。
その後、募集担当官の上級伍長に志願の手続きをする事になった。
フランス語は分からないが、簡単な英語でコミュニケイションが出来たし、申込み用紙には日本語訳があってそれに答えるだけなので簡単だった 。
それで名前を書いたら、さらにもう一度書くように言われて同じく書いたら違うと言われて困った。
訳けが分からなかったが、その内これがアノニマ、つまり外人部隊での偽名制度だと分かった 。
偽名は必ず本名の頭文字から変えて作られる 。
私の本名はYから始まるのでYから続く名前を考えたが、急に言われても困ったが急げと言われてなんとか思いつく名前を考えてYUKI Kengi(ユウキ ケンジ)とつけた 。
自分でつけられるか、向こうが勝手につけるかは担当官しだい。
私は運よく自分でつけられた 。
勝手につけられると普通の日本人が見たら笑ってしまう様なとんでもない名前をつけられることになる。
その他、出身地や生年月日、両親の名前から母親の旧姓まで全て変更された 。
これで全くの別人となった。
これから身分証も郵便貯金の口座も生命保険も全て公式書類はこのままでいく事になる 。
全ての私というものを証明するものは厳重に保管され新しい経歴を与えられ、もし自分が死んでも周りの人は私の本名すら全く分からないままになってしまう。
これが外人部隊の伝統で、全てを捨てて、第二の人生をスタートされると言われる所以である。
その後、視力や 尿検査などの簡単な健康診断 を受けて軍医による問診もあった。
そこで日本人の衛生兵の伍長の人が通訳してくれた。
まさかこんな所で日本人に会うとは思わなかった。
外人部隊伍長というのがぴったりの屈強な体格と面構えでこれが外人部隊兵かと圧倒された。
募集事務所での仮選抜はこれくらいで、だいたい約1週間ほどでパスして本選抜のオバーニュへと運ばれることになる。
毎週木曜日に合格者が呼ばれてリヨン駅からマルセイユまでTGV(フランスの新幹線)で行くことになる。
それまでの間、名前を呼ばれては掃除や食堂の雑用に借り出され、それ以外の時は大部屋で待機。
本当にたくさんの人が志願してきて1週間でいっぱいになった。
ロシア、ハンガリー、ルーマニア、ブラジル、イギリス、デンマーク、オランダ、スウェーデン、中国、モンゴル、マダガスカル、ペルー、フランス、イタリア、カナダ、ポーランドなどなど書いたらきりがないほど。
これだけの多くの国の人々と話せる機会などそうはない。
これだけでも日本にいたらまず経験できない事。
あれだけ熱望していた外人部隊だが急激な環境の変化や異国の地で言葉もよく分からない中、不安で一杯でたまらなかったが、それも1週間も居れば慣れてみんなと話すのが楽しくなった。
8月17日5年間の契約書にサインして、オバーニュへと向かう事になった。
これから私の外人部隊生活がはじまった。