チャド共和国は、アフリカ中央部に位置し、1960年にフランスの植民地から独立後も国内は長年内戦が続き、さらに紛争が絶えないスーダン共和国や中央アフリカ共和国などと国境を接している非常に不安定な地域にある国です。
私は、ジブチ共和国から帰還してわずか4か月後の2007年6月に2度目の海外派遣であるチャド共和国において、反政府武装勢力が活動するスーダン国境付近での任務に従事することになりました。
当時、現在よりもかなり緊張状態にあり、2006年11月と12月には反政府武装勢力がスーダンから国境を越えてチャド国内に侵入し、国境付近の町を一時占領されました。
それによって、第2外人落下傘連隊の第1中隊と第3中隊に非常呼集がかかり、その翌日にはフランスのコルシカ島にある駐屯地からチャドに緊急展開する事態になりました。
国境付近の町はチャド政府軍と反政府軍との戦闘になり、フランス軍はNGOなどで活動しているフランス人を含む外国人を救出して、軍の輸送機で送還させる軍事作戦を実施しました。
その救出された外国人の中に日本人もいました。
2016年の自衛隊の南スーダン派遣では、初の駆け付け警護の任務付与に注目が集まりました。
2017年に司令部要員を除き、陸自施設部隊は完全に撤退され全員が無事に帰国されましたが、私はその10年も前に、駆け付け警護と同じ様な任務にすでに従事していました。
私が派遣されたのは、非常に危険地帯とされるスーダン西部ダルフール地域にほど近い、まるで世界の最果ての様な砂漠の奥地の最前線の基地でした。
空港が隣接した基地でフランス空軍のミラージュ戦闘機がよく離発着していました。
基地の外周は高い土盛と二重の鉄条網で、50m間隔に土のうで補強されたバンカー(防御陣地)が設置されていて四隅には監視塔がありました。
チャド政府軍も反政府武装勢力も区別が難しく、どちらも迷彩服の種類はバラバラでした。
また彼らの部隊は5、6台のコンボイで、トヨタのピックアップの屋根に機関銃と台座を固定し、キャビンの左右に大きな籠を取り付けて各20本近いRPG7(携帯式対戦車ロケット弾)の弾頭を差して、後の荷台に10人くらいのAK47(ライフル)を持った兵士を乗せていました。
同じアフリカでもジブチ共和国は、隣接する不安定な国々の緊張状態はあるものの、ジブチ国内は紛争状態でないのでそれほど危険という訳ではありませんでしたが、今回のチャド共和国における任務は、私にとって本格的な紛争国での初の実戦任務でした。
スーダン国境近くの反政府武装勢力に一時占拠された町へ行く際、薬室に実弾を装填した時は、いよいよこれから本物の実戦だと実感して本当に緊張しました。
武装勢力の勢力範囲内に潜入し、輸送機が着陸可能な場所を安全化し、応急防護陣地を構築して敵の妨害攻撃に備え、輸送支援を行う任務などを行いました。
ここでの脅威は、反政府武装勢力のみならず、ジブチ共和国以上に過酷な自然環境とアフリカでも屈指の貧しい国の一つであるチャド共和国の生活環境でした。
また、日本ではまず目にすることが出来ない光景や体験をすることになりました。
気温が50度以上の暑さ、砂嵐や暴風雨、凄まじい数のバッタや蛾の大群などの大自然の猛威、まともな道路も橋もない荒野の移動は考えられないほどの時間と労力、ハプニングの続出の強行軍など、本当に色々と大変でした。
スーダン国境近くまでの偵察任務では、我々のすぐ近くで戦闘が発生し、チャド共和国軍に負傷者が発生するなど非常に危険な状態が続きました。
結局、大規模な戦闘に発展することはありませんでしたが、小競り合いの様な散発的な戦闘が続く状態でした。
今考えると、アフガニスタンでの実戦と比べるとそれほど大したことではなかったですが、当時の私にとっては初めての紛争地での任務で、まさに初陣でした。
当時の危険度は、自衛隊南スーダン派遣以上に危険な状態だったと思いますが、我々は派遣に際し事前訓練や特別な訓練は全く行いませんでした。
フランス軍において、ほとんどの海外派遣ではごく当たり前のことでした。
特に我々は地球上のいかなる地域へも展開して任務を行う特性を持つ部隊であるため、普段の訓練はそのためにやっているのであり、後はそれを応用して任務を遂行するだけだからです。
それが本来の軍隊の姿であり、あるべき姿だと思いました。