
3月3日、昨日から始まったCOPの建設は順調に進む一方、敵の攻撃は継続的に行われていました。
そして、我々は後方からの敵の回り込みを警戒して、小隊の半分の人員をもって、後方の山を偵察して敵の捜索に向かいました。
アフガンの山々は、まるで日本の剱岳の様に険しい山で、非常に足場も悪い上に、我々は全員がかなりの重装備なので、いつ滑落してもおかしくない状況でした。
その時、小隊先任軍曹(小隊陸曹)であるS上級軍曹が足を滑らせて崖から滑落して重傷を負いました。
骨盤骨折を含む、複数の骨を骨折する重傷で、その場で頚椎や骨盤などを固定し、痛み止めとしてモルヒネを打ちました。
しかし、あまりの痛みに何度も叫び出し、時間をおいて結局計3回もモルヒネを打つことになりました。
そして体重90kg近いS上級軍曹を引き上げてから、簡易担架でヘリが降りられる安全地域まで搬送することになりました。
しかし、我々自身も一人50kgの重装備の上に険しい山を搬送するとなると、想像を絶する厳しさでした。
これが訓練なら、すぐヘリを呼べばなんとかなりますが、敵支配地域ではヘリ自身が撃墜される可能性があるために安全が確保された場所でしか負傷者を回収できません。
そこで3つのグループを作り、担架を搬送するグループ、周囲の警戒をするグループ、担架を運んでいる人たちの荷物を背負うグループに分かれて、途中で交代しながら下山して行きました。
それでもかなり体力的にも厳しく、その上、いつ敵の襲撃があるかも分からない緊張感の中、精神的にも消耗していました。
たった一人の負傷者でも、小隊全員で協力して、ようやくなんとか搬送出来ましたが、これでもし負傷者が増えたら、たちまち我々は動けなくなってしまう状況でした。
なんとか、敵の襲撃もなく陣地まで戻れました。
しかし、我々も限界寸前でした。
これに耐えられたのは、これまでにこうした非常に厳しい状況での担架搬送訓練を散々やって来たおかげでした。
S上級軍曹は、ヘリで後送されて病院に運ばれました。
そこで手術を行い、その後はフランスへ送還されたようです。
派遣序盤で、もう小隊先任軍曹を失いましたが、任務はそのまま継続されました。
その後も敵との戦闘は続き、防御掩体も少しづつ大きく補強して行きました。
補給が何度かありましたが、その中で一度、航空機から補給物資を軽物量投下されましたが、なぜかメインの落下傘が開かない状態で地面に激突して、物資がまるで爆発したかのように飛び散りました。
3月6日深夜、これまで敵が攻撃を加えて来た市街地へ潜入して、敵の掃討制圧することになりました。
暗視眼鏡を付けて、静かに市街地へ忍びより、敵を捜索して行きました。
この時は小隊長も含めてみんな、多くの死傷者が出ることを覚悟して任務に臨みました。
私もあれだけ激しい戦闘があって、その最も危険な場所に突入していくので、かなり緊張していました。
街に入り、しばらくすると夜が明けました。
しかし、敵の気配はなく、結局そのまま敵情なしで、我々は引き上げました。
どうやら、敵は我々の気配を察知して、分が悪いと踏んで、いち早く撤退したようでした。
今回の任務はかなり大規模で、戦闘もかなり発生しましたが、今後は気温も高くなれば、敵の活動も活発となり、益々厳しい戦いになって行くと覚悟しました。