0 0
Read Time:28 Second

私はアフガニスタンから帰還して休暇後に、新兵教育課程の助教を臨時で4ヶ月間勤務することになりました。

いきなりのことでびっくりしましたが、なぜ私がという気持ちでした。

昔は軍曹教育に行く人が派遣されていましたが、今はその制度はなくなり、各連隊から逐次派遣なさる様になりました。

フランス語に自信のない私には、とても勤まるとは思いませんでした。

しかも新兵訓練では厳しく指導することになりましが、私はそういうのはあまり得意ではない方でした。

私は自分に対しては厳しいですが、他人を厳しくあたるのが苦手でした。

小隊長に言われて、一度は断りましたが、どうしてもと言われて結局引き受けました。

とにかくやるだけやってみようと思いました。

改めて新兵教育をやるということで、昔自分がそうだった頃を思い出しました。

色々と緊張する中で教育が始まると、私は外人部隊で最凶と名高い第2外人落下傘連隊の人間で、しかもアフガンから帰還した直後の上に、小隊長や軍曹など要員の中でも私が最も勲章の数が多かったために、新兵達にはかなり畏怖の目で見られていました。

私がちょっと睨んだだけで、震え上がっていました。

特に新兵訓練では、厳しい規律と生活のなかで命令に絶対服従で、どんな辛いことやきついことでも耐えられる意志と精神が重要になってきます。

新兵の指導については、本属の助教はガミガミうるさく説教していましたが、私の場合は、だらけている新兵を見つけては、無言で睨み付けて、しばらくしたら何も言わずに立ち去るという、無言キャラでプレッシャーを与えるというやり方していたら、案外効果的でした。

新兵達は、私がアフガンの話をすれば眼をキラキラさせて聞いていました。

また、総合格闘技をやっていた体格のガッチリしている格闘自慢のアメリカ人新兵に、スパーリングを挑まれましたが、すぐに絞め技を極めてギブアップさせたら、羨望の眼差しを向けられました。

ちゃんと兵士らしく扱ったり、実戦経験を基にした戦闘技術を教えるなどしていたら、尊敬の眼差しで見られ、ずいぶんと慕われて、嬉しくもあり恥ずかしい気分でした。

でも、私自身も自衛隊前期教育では、彼らと同じように空挺レンジャーの班長に憧れていたなと、昔を思い出しました。

私が担当した小隊に日本人の新兵が二人入って来て、その内の一人は元自衛官で、某精鋭部隊出身で非常に高いCQB能力を持ち、イラクなどの様々な海外派遣を経験している優秀な隊員で、しかもごく普通の人が彼を見ても自衛官にしか見えない、自衛官らしい自衛官でした。

本当に長かった4か月間でしたが、今思うと色々といい経験でした。

戦闘部隊に長年いて、初めて教育連隊での勤務で、すべてが初めてのことで戸惑いや難しさもありましたが、終わってみればいい思い出でした。

当初、私が担当した教育小隊は新兵35人で始まり、最初の1か月で5人が辞めて、途中怪我で入院していた別の中隊の新兵が一人合流して、最終的に31人残りましたが、外人部隊本部での部隊配属手続きで3人辞めることになりました。

しかし、私の原隊である落下傘連隊には10人配属されることになりました。

教育当初は、精鋭で世界的に有名な第2外人落下傘連隊に希望する新兵は多かったですが、やはり非常に厳しい訓練が進むにつれて、落下傘連隊希望者はどんどん少なくなってきました。

最終的に希望者は10人までに減り、でもその10人すべてが落下傘連隊を熱望していました。

皆、非常にやる気満々で、連れて帰る私もとても嬉しいものでした。

元自衛官の彼は、落下傘連隊へ配属されることになり、私と彼を含む落下傘連隊配属組と一緒にコルシカ島の駐屯地に戻りました。

しかし、彼は残念なことに落下傘連隊での訓練中に重傷の骨折を負ってしまい、長期休養後に他に連隊に転属することになってしまいました。

優秀だったので、本当に残念でした。

助教勤務は色々と大変でしたが、教え子が出来たことが一生の宝になりました。

Happy
Happy
0 %
Sad
Sad
0 %
Excited
Excited
0 %
Sleepy
Sleepy
0 %
Angry
Angry
0 %
Surprise
Surprise
0 %

Average Rating

5 Star
0%
4 Star
0%
3 Star
0%
2 Star
0%
1 Star
0%

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です