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元禄15年12月14日(旧暦1702年1月30日)は、赤穂浪士が吉良上野介の屋敷に討ち入った日です。

そして主君、浅野内匠頭の仇である吉良上野介を見事に打ち取ることが出来ました。

この討ち入りを計画、指揮を行ったのが播磨赤穂藩の筆頭家老であった大石内蔵助良雄です。

私が最も尊敬し、お手本とする方でもあります。。

「孫子の兵法」と日本古来の兵法である「闘戦経」の流れを組む「山鹿流兵法」、その開祖である山鹿素行の教えを受けた赤穂藩の藩士達だからこそ、成し遂げられたと思います。

大石内蔵助は、主君の死を知った瞬間から仇討ちの計画立案、行動計画を彼の頭の中において着々と進めました。

情報保全、セキュリティ・クリアランス(機密情報にアクセスできる資格者)の選定、欺瞞工作、偽情報の拡散、武器装備の調達、別人になりすましての江戸への秘密潜入、吉良屋敷の見取り図や内部情報の収集、通常行動規定と作戦失敗時の行動規定、閉所戦闘と低照明下戦闘の行動要領、など

これは、まさに現代でいう特殊作戦で、例えるならCIAやDEVGRUが実施したビンラディン殺害作戦(ネプチューン・スピア作戦)だと思います。

150人もいた吉良屋敷の守備隊を相手に赤穂浪士47人は一人も死者を出すこともなく、作戦を遂行しました。

討ち入り後は、泉岳寺に向かい、亡き主君の墓前に吉良の首級を供えました。

その後、討ち入りをした赤穂浪士は、寺坂吉右衛門の一人を除く全員が切腹となり、泉岳寺に今もお墓が残っています。

大石内蔵助は、享年45歳でした。

関ケ原の戦いから100年も経ち、戦も実戦もなく平和な時代となり、武士たちは誰も人を斬った経験もなく、行政仕事が中心で、まるで役人と変わらない生活でした。

そんな時代に武士とは何か、忠義とは何か、それを思い起こさせたのが赤穂浪士でした。

まさに現代に通じるものがあると思います。

毎年12月14日には、泉岳寺にて義士祭が行われています。

私も昨年、義士祭に行きました。

そして、毎年欠かさず、忠臣蔵を観ています。

日本人であるならば、ぜひ忠臣蔵を観て下さい。

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