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今回は私の部隊の仲間の死について話します。

アフガンでの任務では多くの仲間が死傷しました。

即死した人もいれば、懸命に生きようとしたが力尽きた人、命は取り留めたもののもう二度と自分の足で歩けなくなった人など私は見てきました。

その中でも忘れられないのが私と同じ中隊で、とてもお世話になった軍曹の死でした。

それは最も危険な谷での任務で第1小隊と私がいる第4小隊が南北に十数km伸びる完全な敵勢力圏内の大型の村に1週間潜入して敵の索敵・掃討するものだった。

猛暑の中、重装備で不眠不休、飢え、渇き、疲労困憊で任務を続け、みな限界寸前だった。

そんな時、タリバンと交戦という情報が入った。

軍曹が足を撃たれて担架で急いで戦闘地域から後送することになった。

少し下がったところで彼の防弾ベストを外して楽にさせ、衛生兵が応急処置をした。

そしてさらに車両まで後送しようと移動した時、敵の待ち伏せを受け、機関銃掃射で担架を持っていた一人は両足を撃たれ、両方の大腿骨が骨折し大動脈が切断という重傷を負い、もう一人は腕を撃たれた。

その他にも多数の負傷者がでました。

担架に乗せられていた軍曹は防弾ベストを外していたことで被弾して肝臓を貫通しほぼ即死だった。

両足を撃たれた人は衛生兵の素早い処置で一命は取り留めた。

一度に大量の死傷者が出て現場は大混乱となった。

負傷者の後送のためのヘリを呼ぶこととなった。

我々は援護のため急いで現場へ向かった。

その間にもヘリが何度も往復して負傷者を首都カブールの大型病院まで搬送することになった。

120mm迫撃砲の支援射撃の中、我々は前進した。

迫撃砲の着弾を間近で受けつつ、我々が現場に着いた時にはとてつもない緊張感が現場を包み、まさに修羅場だった。

最も危険なエリアに我々は突入していくことになった。

高い壁に囲まれた建物群の中を慎重に相互支援をしつつ、慎重に前進した。

その間、辺りは不気味なほど静まりかえり、小隊長らの緊張と苛立ちが混ざる無線の交信の音だけが響きわたっていた。

そんな時、突然小隊の前面で激しい銃撃戦となった。

第3中隊も近くにいてかなり狭い範囲に兵力が集中した配置で膨大な量の銃弾が飛び交った。

その前面にいた我々は反撃どころか、あまりの銃弾の嵐に壁や柱に身を隠して身動きが取れない状態だった。

爆発音もそこら中でおきてまさに地獄だった。

壁に銃弾が当たり弾ける音と爆発音と衝撃波。

這いつくばって匍匐してなんとか位置を変えようと努力するが、少しでも頭を上げたりすればそのまま天国行き、そんな状態だった。

そんな中、同じ小隊の一等兵が被弾した。

彼は伏せていたが銃弾が背中のキャメルバック(水が入ったバック)を貫通してケツをも貫通していった。

伏せていて一番盛り上がった部分だったからだ。

一つ違えば頭に被弾していた。

急いで後送し車両部隊まで搬送した。

小隊は相互援護をしつつ後退していった。

そして私のグループはいったん車両まで戻り、ミラン対戦車ミサイルを出して、少し小高い盛り上がった丘の様なところへ移動してミランを配置して狙撃するために敵を索敵した。

ここからなら高い壁の建物群でもよく全体を見渡せた。

すぐ隣にフランス空軍特殊部隊のスナイパーが配置して、私と共に敵を狙っていた。

するとまた激しい戦闘が前面でおきた。

銃弾が私のすぐ近くをかすめていった。

その時、私は敵を発見して照準した。

中隊長に直接射撃許可を申請した。

しかし、照準する敵のすぐ近くに5歳くらいの子供の姿が見えた。

敵はこちらをよく知っている。

子供や女性がいればこちらが撃てないことを。

我々はどうすることもできなった。

子供が離れるのを待っていたが敵は子供を盾にするように決して離れない。

結局そのまま膠着状態が続き、日が落ちて暗くなってきた。

そして撤退命令を受けて引き上げることとなった。

後日、FOB(前線任務基地)にて部隊葬のセレモニーが行なわれ、私も出席した。

セレモニーの後、フランス国旗を掛けられた棺は同じ小隊の仲間によって担がれて運ばれていった。

運びながら号泣している人もいた。

彼の遺影と棺を交互に見ながら私は彼の様に立派に戦いたいと強く誓った。

外人部隊と言えどもフランス正規軍の一員として死んだらフランス国旗を掛けられる。

私はポケットの中にある靖国神社のお守りと日の丸(自衛隊イラク派遣で使用した迷彩服に着けていた日本国旗のパッチ)をギュッと握りしめていた。

もし私が死んでフランス国旗に包まれようとも、私は最後まで日本人でありたいという気持ちからこれらを常に肌身離さず持っていた。

戦死した軍曹はポーランド人で、とても穏やかな性格で日本人好きで色々面倒を見てもらっていて親切にしてくれていました。

なぜか私の事を「ヒロヒト」と呼んでいました。(彼にとって日本人=昭和天皇なのでしょう)

彼はまだ20代後半で、結婚して間もなかったのに本当に惜しい人を失いました。

でも私はなぜか彼が死んだという実感が湧きませんでした。

訓練や海外派遣でどこかに行っているのではという感じでした。

外人部隊では脱走や転属や除隊などで激しく人が入れ変わります。

彼も死んだのではなくただどこかに行ってしまっただけでいつかまたひょっこり現れるではないかという気がしています。

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