私は南米仏領ギアナの派遣から帰還し、休暇を終えて間もなく、「伍長教育課程」に入校することになりました。
外人部隊の「伍長教育課程 FGE (Formation Generale Elementaire)」には「F1」と「F2」の2種類あります 。
「F1」は、入隊して2年から3年勤務の者が受けるコースで、フランス南部のカステルノダリにある第4外人教育連隊において、10週間の教育を受ける正規の教育課程です 。
主に軍曹以上に昇進する見込みがある人が行く出世コースの傾向があります。
「F2」は、主に3年勤務以上の古参兵が受けるコースで、各連隊で独自に行なう、5週間の短期養成コースとなります。
私はほぼ4年勤務だったので、普通なら「F2」に送られるはずなのですが、「F1」に行くことになりました 。
4年勤務で「F1」に行くのはかなり遅い方です。
ただ、海外派遣が多かったり、小隊内でなかなか枠がまわって来ない場合などで遅れたりすることがあります 。
第4外人教育連隊には6個中隊あり、連隊本部 、1eCEV(第1新兵教育中隊) 、2eCEV(第2新兵教育中隊)、3eCEV(第3新兵教育中隊)、4eCIC(第4下士官教育中隊)、5eCIS(第5専門特技教育中隊)、CCS(業務中隊)となります 。
今回、私が教育を受けたのが4eCICで、伍長、軍曹など小部隊の指揮官としての教育を行なう中隊です 。
従って、これらの教育は高いリーダーシップや強靭さが求められるため、非常に厳しい内容となっています。
4eCICには、FGE A、B、Cの3つの伍長教育小隊とFG1 A、Bの2つの軍曹教育小隊などがあります。
私は「FGE C」で受けることになり、この小隊が当時一番厳しいことで有名で、始まる前から覚悟していました。
どの小隊が厳しいかは担当する教官が数年ごとに入れ替わるので時期により違いますが、今回我々の担当主任教官である中尉は、走る、泳ぐ、筋力など、全てが超人的な人で、ついて行く我々は本当に大変でした 。
伍長候補生は、2eREP(第2外人落下傘連隊)、2eREI(第2外人歩兵連隊)、1eREG(第1外人工兵連隊)、2eREG(第2外人工兵連隊)、1eREC(第1外人騎兵連隊)など、フランス国内にある外人部隊の各連隊から集められて、一緒に教育を受けます。
当初26人で始まる予定が、2名ほど教育当日になっても姿を見せず、そのまま脱走していました。
また、始めの2週間で2人が怪我や体力的な理由で脱落して、結局わずか22人でやっていくことになりました 。
毎日、教官が居室点検を行い、常に室内やロッカーなど整理整頓が必要で、不備があれば罰や反省が待っています。
その他にも、報告要領の不備やちょっとしたミスに対しても容赦なく罰がありました。
腕立て伏せなど体力的な反省はまだマシな方で、始末書を何十枚と書かせる罰はかなり大変でした。
きちんとした公式の書式で、いつ、だれが、どこで、どのようにしたのかを、線がない白紙に手書きで縦横を綺麗に合わせて書くのは時間が掛かる上、非常に面倒でした。
さらに正しい文法のフランス語で書くので、フランス語が苦手な人はフランス語圏の同期に下書きを頼んで一晩中、延々と書くことになります。
明日までに50枚書いて来い言われて、もし間に合わないと翌日さらに追加で50枚となり、これが地味ですが非常にストレスと睡眠不足が酷くなります。
「F2」では、教育期間が短い分、内容も濃密で時間的に体力的にもかなりハードですが、全て屋外で野営して行なうので、掃除や勤務、始末書など、そうした無駄な雑務が無いので、だから「F2」の方が気楽で良いと言っている人もいます 。
教育内容は、歩兵職種が使用する兵器全般の取扱いや分解結合、射撃、整備等を訓練します。
PA拳銃、ミニミ軽機関銃、ANF1機関銃、LRAC対戦車砲、AT4対戦車ロケット砲、FAMAS小銃、FLG小銃擲弾、12.7mm重機関銃、FRF2狙撃銃など、幅広く訓練します。
歩兵職種は特に問題なく取扱うことが出来ますが、それ以外の職種である機甲科、工兵科などは、これまで一度も扱ったことがない銃火器もあるので、かなり大変そうでした。
また、地図判読、コンパス行進、通信、応用爆破、地雷、NBC(核、生物、化学兵器)、小部隊戦術、小部隊の指揮要領、命令下達、など基本的な戦闘技能や部隊指揮を訓練します。
地雷や爆破工作などは、逆に専門家である工兵科の同期達が分からないところを詳しく教えてくれたり、お互いに助け合っていました。
外人部隊の伝統と歴史、軍規及び服務規定、フランスの防衛構成及び軍の構成など、学科的な課目では、分からないところをフランス国圏の同期に教えてもらったりしました。
各種暗視装置や光学機器(エームポイントやスコープなど)、戦闘車両の識別(西側と東側の戦車、戦闘装甲車、装甲人員輸送車、偵察車両)など、部隊で専門的な教育を受けた人が、苦手な同期に分かり易く教えたりしていました。
非常に多くの課目を詰めこまれるので、本当に大変でした。
教育初日の早朝5時、背のう、小銃 、戦闘ベスト、鉄帽など完全武装で、8kmを最低50分以内に走るテストがスタートするところから教育課程が始まりました。
そして、制限時間内にゴールして、そのまま休むことなく20種類の障害物を時間内に走り切ります。
さらに続いて、腕立て伏せ、腹筋、スクワット、懸垂、6mの綱のぼり(腕だけ)、12分間走、水泳テストなど、初日の午前中に素養試験を受けて行きます。
もし基準に満たなかったり、不合格の場合は教育不適格となり、原隊復帰となります。
その夜には、そのまま寝ずに40kmの夜間行軍がありました 。
翌朝には、休む間もなく長距離走や12.7mm重機関銃を担いでの障害物走など、何度もやることになりました 。
その後、ガリク演習場で行なった3週間の野営では、1日の平均睡眠時間が約2時間でした。
朝は最低15kmの持続走、その後に座学や武器訓練、射撃などがあり、夜は必ず行軍か、地図判読コース(地図を持って示された座標にある10個の目標を走って探しまわる)があり、ほとんど寝ることは出来ません。
そのまま朝を向かえ、障害物走か、長距離走をやり、また座学となり、その夜もまた夜間行軍というのを休み無く3週間続けました 。
また教育期間中は毎週末に必ず、8kmの完全武装走(背のう、個人装備、小銃)がありました。
そうなれば、座学で意識が朦朧として寝てしまうのが一人でもいると、教官が「すぐに全員、1分以内にガスマスクと化学防護衣を装着し、完全武装で集合」と怒鳴り 、日中の強い日差しの中、倒れるまでひたすら走らされました。
全身汗だくになり、マスクで呼吸が苦しいので、かなりキツかったですが目は覚めました 。
同期の伍長候補生達は、これまでに経験したことがない高ストレス下の極限状態に置かれた厳しい訓練にみんな参っていました。
まさに「地獄に来てしまった」、というみんな顔をしていて、絶望感が漂っていました。
その一方、私を含め、第2外人落下傘連隊の隊員達だけは、部隊の専門課程やコマンドー課程など過酷な訓練を普段から受けて来たので、「え、こんなの当たり前じゃないの。部隊の方がもっとキツい」という涼しい顔をしていました。
普段、地獄に住んでいた我々にとって、それが日常生活の一部となり、感覚が麻痺して地獄の日々が普通になっていました。
ただ、肉体的な厳しさは慣れていましたが、この教育で最も大変だったのがフランス語の壁でした。
今までは、指示されたことをやればよかったですが、伍長になると上からの命令を正確に理解して、部下に指示して指揮をしなければならない立場になります。
座学も自衛隊でいう服務小六法の様な内容で、服務規定、警衛や当直などの定義及び任務、陸戦法規、正当防衛、褒賞や授賞など細かいことなどを当然、全てフランス語で教育を受けます。
しかも、その量は半端ではなく多く、フランス人でさえ書くのが追いつかないと嘆いていて、フランス語圏でない私はどうなると言いたかったです 。
最終的に100ページのノートが6冊分、びっしり書くことになりました。
分からない単語は寝る時間も削って一つ一つを辞書で調べて理解しなければならず、精神的にはまさに地獄でした。
連隊演習や戦闘訓練において、私は狙撃手として行動することになりました。
というのも伍長候補生の中で、7.62mm対人狙撃銃の専門教育を受けたことがあったのは、私と第2外人落下傘連隊第4中隊(狙撃と破壊工作が専門)の狙撃手であるポーランド人の2人しかいませんでした。
そのため、部隊指揮などの役職は交代して行いますが、それ以外の教育期間中のほとんどを狙撃専門で出来たので面白かったです。
サンシール(フランス士官学校)の学生ら1個大隊相手に、我々FGE Cが対抗部隊(敵役)として参加した演習がありました。
我々1個小隊22名が訓練用市街地に立てこもり、約200人近くの相手が攻めてきた時、私は建物の屋上から狙撃する担当でした。
他の仲間がやられて行く中、私は最後まで抵抗して、位置を変えながら狙撃を続け、106人まで狙撃したところでストップをかけられ終了。
私がいた建物は一番高いところで、街全体が見渡せ、上まで登ることが非常に困難な所に配置していたため、相手側は誰も登って来れない上に、対戦車火器なども無く、軽火器のみだったため、私のやりたい放題でした 。
でも、もし相手側に対戦車火器があったら、すぐにやられていたと思います。
最後の週では、駐屯地から離れた場所にある4eCICの中隊訓練所まで32kmを走って行き、15科目に及ぶ各種テストを野外に設置された各場所で受けました。
その夜には35kmの夜間行軍をして、一睡もしないまま、アフガニスタンを想定した戦闘訓練を丸一日行ないました。
その夜には、夜間の地図判読訓練で一晩中探し回り、そのまま寝ないで一日中戦闘訓練をやり、最終日に駐屯地まで32kmを走って戻るという内容でした。
これら全ては、不眠不休で行ない、各種テストは成績として残ります。
付け焼き刃の知識や技術では何の役にも立たないため、その人の本来の能力が試されました。
それでも筆記試験などフランス語の大きな壁は大変でした。
結局、私は22人中4番という好成績を取ることができ、まさに奇跡でした。
フランス人が6人もいて、その上に第2外人落下傘連隊から6人いて、みんな優秀で、それ以外にも私から見ても優秀だと思う人も結構いて、私自身は10番以内に入ることすら難しいと思っていたため、本当に信じられなかったです。
首席はやはりフランス人で、しかもフランス陸軍特殊部隊である13eRDP(第13竜騎兵落下傘連隊)に5年間勤務していた元隊員で、現在は第2外人歩兵連隊所属でした。
彼は私のバディでもあり、とても優秀な人でした。
しかし2番から5番は皆、第2外人落下傘連隊の隊員が取り、やはりその優秀さが分かりました。