私が「伍長教育課程」を卒業し、伍長に昇任した2009年夏頃、正式にアフガニスタン派遣の辞令がありました。
そして、約半年間もかけてアフガニスタン派遣のための準備訓練を行うことになりました。
通常、海外派遣のための事前訓練は行わいませんが、今回のアフガニスタン派遣はこれまでにない異例のケースでした。
なぜなら、すでにアフガニスタンに派遣された多く部隊で死傷者が続出している現状があったためです。
我々の派遣が決まる少し前、フランス正規軍である第8海兵落下傘連隊の一個小隊が任務中に待ち伏せにあって10名が死亡し、21名が重傷を負うという、小隊のほぼ全てが死傷するまさに全滅状態となる戦闘がありました。
救出に行った別の小隊が現場に向かったところ、取り残された仲間の遺体の多くが敵によって首を切断されたりするなど酷い損壊を受けているのを目撃して、PTSD(心的外傷後ストレス障害)を発症する人が続出したということがありました。
その戦死者の一人は、私の部隊から出向していた衛生兵が含まれていました。
今回、私は第2外人落下傘連隊第2中隊(山岳戦)を基幹とするフランス軍「タスクフォースALTOR」に配属されて派遣されることになりました。
我々が受けることになった準備訓練は、まず対ゲリラ戦やアフガニスタンの様式に合わせた訓練、戦闘外傷救護、EOD(爆発物処理班)からのIED対処(即席簡易爆弾)及び地雷対処などの訓練を受けました。
次に市街地戦訓練センターにおいてCQB、市街地戦の教育を徹底して受け、対ゲリラ戦での歩兵、戦車、工兵、砲兵、航空を合わせた戦闘団による市街地掃討訓練を行いました。
更にコルシカ島の険しい山々において、山岳戦の訓練を受けることなり、登山技術や山岳地域でのサバイバル、防弾プレートなど重装備を身につけた状態での山地機動、遠距離での戦闘などを訓練しました。
他にもアフガニスタンの文化や習慣、パシュトー語、現在の戦況や敵情などの教育も受けました。
また、今回の派遣において画期的だったのが、最新装備一式が支給され、まさに頭の先から足先まで全てがこれまでの物と総入れ替えされたことでした。
FELINという新しい戦闘装着セットで、迷彩服もコンバットブーツも最新のタイプに変更されました。
さらに、CIRASタイプに近い防弾アーマー、最新ヘルメット、コンバットシャツ、キャメルバック社製の大型バックパック、FELINタイプの新型背のう、アイプロテクション、防寒着など衣類系、マガジンポーチ類等々、全ての装備がこれまでと一新されました。
さらに個人用メディカルポーチには、SOFTT止血帯、イスラエル製圧迫包帯、モルヒネ、輸液セット一式等々、当時としては充実した内容でした。
それだけフランス軍がこれまでになく本気だということが分かりました。
これらが現在のフランス軍標準装備の元となるプロトタイプ(試験運用モデル)でした。
そして、派遣直前には部隊全員に対して遺書を書くように指示がありました。
遺書と言っても死亡した場合の緊急連絡先など形式的なものでした。
でも、もしこれが自衛官だったら、きっとみんな家族や子供などのことを考え、色々と悩みながら書くことでしょう。
そして遺書を提出する時には、部隊長に厳かに手渡すのを想像してしまいます。
では我々はどうだったかというと、まるでアンケートを書く様に、さっと書いてすぐにその場で手早く集めてそれで終わり。
誰一人、何の情緒も悩みもありませんでした。
なぜなら、戦場に行くこと、戦死することなど、そんなことは外人部隊に志願する段階で、すでに覚悟は決まっているからです。
今さらそんなことで悩むことはありえません。
私自身も死の覚悟については、外人部隊に志願する時にはすでに決まっていました。
もし今、ここで死んでも何の悔いもありません。
私の場合、「もし私が死んだら、私の貯金や私物はみんなで分ければいいから、遺書は書かなくていい」と言いましたが、小隊長からこれは義務なので書いてくれと言われて、仕方なく書くことになりました。
我々にとって戦場に行くことは、ごく当たり前のことであり、むしろそれがより危険な任務であればあるほど闘志が湧いて来ます。
当然、生きて帰れないかもしれません。
もちろん、死ぬのが怖くない訳ではありません。
我々は、常にいつ死んでもおかしくはないほど危険な訓練を重ね、誰よりも死の恐怖を知り、何度も地獄の苦しみを味わう試練を乗り越え、それでも笑って戦場に行ける者たちなのです。
それが「軍人」という生き方なのです。
私にとってアフガニスタン派遣に行けると分かった時は、まさに人生最良の日でした。