
6月7日、それは最も危険な谷での任務で、南北に十数km伸びる完全な敵勢力圏内の大型の村に1週間潜入して敵の索敵・掃討するものでした。
猛暑の中、重装備で連日の戦闘、さらに不眠不休、飢え、渇き、疲労困憊で任務を続け、みな限界寸前でした。
そんな時、他の小隊がタリバンと交戦したという情報が入りました。
敵の機関銃射撃で、R軍曹が片脚を撃たれました。
小隊は応戦し、2名がR軍曹を搬送して遮蔽物を目指しました。
そこに敵の機関銃射撃を受け、R軍曹は腹部に被弾して即死しました。
搬送していたP軍曹は、両脚を撃ち抜かれ、両脚の大腿部を大きく損傷して大出血する重傷を負いました。
もう一人の搬送していたC曹長は、土壁になんとか退避しました。
両脚を撃たれたP軍曹は、自力で止血帯を施しました。
C曹長は、P軍曹を土壁の陰へ引っ張るため、手を伸ばした時に腕を撃たれました。
小隊は、両脚を負傷したP軍曹を優先して搬送を開始しました。
近道するためにM上級軍曹が土壁を破壊していた時、土壁に潜んでいたサソリに刺され、アナフィラキシーショックを起こし倒れました。
その後、両脚を撃たれたP軍曹は、衛生兵の必死の救命処置で一命は取り留めました。
P軍曹は、意識ははっきりしていましたが、全身が震えて顔面蒼白の状態でした。
腕を撃たれたC曹長は自力で離脱しました。
私の小隊は持ち場を離れ、援護のため急いで現場へ向かいました。
その間にP軍曹とM上級軍曹をヘリで国際部隊病院まで後送することになりました。
死亡したR軍曹は、その後にヘリで後送されました。
腕を撃たれたC曹長は現場に残りました。
120mm迫撃砲の支援射撃の中、我々は前進しました。
迫撃砲の着弾を間近で受けつつ、我々が現場に着いた時にはとてつもない緊張感が現場を包み、まさに修羅場でした。
最も危険なエリアに我々は突入していくことになりました。
高い壁に囲まれた建物群の中を慎重に相互支援をしつつ、慎重に前進しました。
その間、辺りは不気味なほど静まりかえり、小隊長らの緊張と苛立ちが混ざる無線の交信の音だけが響きわたっていた。
そんな時、突然小隊の前面で激しい銃撃戦となりました。
別の中隊も近くにいて、かなり狭い範囲に兵力が集中した配置で膨大な量の銃弾が飛び交いました。
その前面にいた我々は反撃どころか、あまりの銃弾の嵐に壁や柱に身を隠して身動きが取れない状態でした。
爆発音もそこら中でおきて、まさに地獄でした。
壁に銃弾が当たり弾ける音、爆発音と衝撃波。
我々は這いつくばって匍匐して、なんとか位置を変えようと努力しますが、少しでも頭を上げたりすればそのまま天国行き、そんな状態でした。
そんな中、同じ小隊のA上等兵が被弾しました。
彼は伏せていましたが、銃弾が背中のキャメルバック(水が入ったバック)を貫通して、さらに尻を貫通していきました。
伏せていて一番盛り上がった部分だったからです。
一つ違えば頭に被弾していました。
我々は相互援護をしつつ、後退して行きました。
A上等兵は自力で我々と共に車両まで戻り、衛生兵の手当を受けました。
私の分隊は、車両から対戦車ミサイルを出して、少し小高い盛り上がった丘の様なところへ移動し、敵を狙撃するために索敵しました。
ここからなら高い壁の建物群でもよく全体を見渡せました。
すぐ隣には、フランス空軍特殊部隊のスナイパーが配置して、敵を狙っていました。
するとまた激しい戦闘が前面で起きました。
銃弾が私のすぐ近くを掠めていきました。
敵が放ったRPG7ロケット弾の至近弾を2発受けることとなり、運良く直撃から外れ、私からほんの数メートルのところを通り過ぎて、後方で爆発しました。
我々から200mほど前の建物の陰からRPG7を撃たれ、一つは至近距離で爆発し、もう一つは不発で助かりました。
敵はすぐに隠れてしまい、なかなか捉えることが出来ません。
その間にも激しい銃撃にもさらされました。
その時、私は敵を発見して照準しました。
中隊長に直接、射撃許可を申請しました。
しかし、照準する敵のすぐ近くに5歳くらいの子供の姿が見えました。
敵はこちらをよく知っています。
子供や女性がいればこちらが撃てないことを。
子供が離れるのを待っていましたが、敵は子供を盾にするように決して離れません。
結局そのまま膠着状態が続き、日が落ちて暗くなってきました。
そして撤退命令を受けて引き上げることとなりました。
後日、FOB(前線任務基地)にて部隊葬のセレモニーが行なわれ、私も出席しました。
セレモニーの後、フランス国旗を掛けられた棺は同じ小隊の仲間によって担がれて運ばれて行きました。
運びながら号泣している人もいました。
彼の遺影と棺を交互に見ながら、私は彼の様に立派に戦いたいと強く誓いました。
外人部隊と言えどもフランス正規軍の一員として死んだらフランス国旗を掛けられます。
私はポケットの中にある靖国神社のお守りと日の丸パッチ(自衛隊イラク派遣で使用した迷彩服に着けていた日本国旗のパッチ)をギュッと握りしめていました。
もし私が死んでフランス国旗に包まれようとも、私は最後まで日本人でありたいという気持ちから、これらを常に肌身離さず持っていました。
戦死した軍曹はポーランド人で、とても穏やかな性格でした。
小隊は違いましたが、同じ中隊でしたので、色々とお世話になりました。
日本人好きで、とても親切にしてくれていました。
彼はまだ20代後半で、結婚して間もなかったのに本当に惜しい人を失いました 。
でも私はなぜか彼が死んだという実感が湧きませんでした。
訓練や海外派遣でどこかに行っているのではという感じでした。
外人部隊では脱走や転属や除隊などで激しく人が入れ変わります。
彼も死んだのではなく、ただどこかに行ってしまっただけで、いつかまたひょっこり現れるではないか、そんな気が今でもしています。